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■第九回■モンゴル帝国と組織開発ピラミッド【グロービス経営大学院 主任研究員 山中礼二】

2013年11月20日

先日ライフネット生命の出口社長と立ち話をする機会があった。「最も尊敬する歴史人物は誰ですか?」と伺ったところ、モンゴル帝国のクビライ・カーンとのこと。多種多様な人材を活用した人物である。

私は中途半端な知識で、「耶律楚材などを活用したということでしょうか。」と聞いた。耶律楚材は、中華民族でありながらモンゴルの統治下に入り、安定的な治世に大きな役割を果たしたと言われている。

しかし出口社長は、「耶律楚材は全然違う。この本を読むといいですよ。」と言って、一冊の本を紹介して下さった。

「モンゴル帝国の興亡 – 世界経営の時代<上・下>」杉山正明氏

この本が面白かった。耶律楚材は過大評価されていたと理解した。またクビライ(「フビライ」と書くこともある)が真に国際的な帝国を構築したことが分かった。

 

モンゴル帝国 – 世界史上最大の「メガ・ベンチャー」

「『国を挙げて』の大遠征の場合、モンゴルは行けるだけ行こうとしている。もとより、幾段かの目標をあらかじめ設定してはいる。しかし、第一目標が達成されると、第二、第三と、そのたびごとに新たな目標へ向かって陣容を整え直し、進んでいる。」(「モンゴル帝国の興亡」杉山正明氏)

モンゴル帝国は100年でユーラシアを支配した。西暦1200年頃から1300年までの急拡大は、歴史上空前絶後である。世界史の教科書を読まなくてもわかる。Youtubeにアップされている動画を見れば、その破竹の成長を44秒で理解できる。http://bit.ly/18efohv

 

急激な没落

しかし、繁栄は長く続かなかった。クビライの後、モンゴル帝国全土に影響力を及ぼす大カーンは現れず、そして1350年頃からは中国でも朱元璋(明の創始者)との戦いで守勢に回っている。西からはチムール帝国が1370年に成立し、モンゴル帝国という名前は世界史地図上に見当たらなくなっている。

ローマ帝国が、1000年以上も存続したことと比較すると、その差は大きい。日本の徳川幕府ですら、300年近く続いているのだ。

モンゴル帝国が長くは続かなかった理由は何だろうか。その理由は、ベンチャーの組織開発のフレームワークで説明できるように思う。

 

組織開発ピラミッド

「経営」とは、いろいろな仕事を含んだ概念である。起業家にとって経営とは、営業であり、資金調達であり、人材採用でもある。ではその中で最も重要な「経営のツボ」はどこにあるのだろうか。

その答えは、「成長段階に応じて、ツボが変わる」である。

Eric G. Flamholtz, Yvonne Randleの”Growing Pains” (邦題「アントレプレナー・マネジメント・ブック」)によれば、組織は以下の段階を経て成長していく。

1. 事業ドメイン・市場の定義

2. 製品の開発

3. 経営資源の獲得

4. オペレーションの構築

5. マネジメント・システムの構築

6. 企業文化(理念・価値観)のマネジメント

最初は何をやるかも決まっていない企業が、次第にドメインを固め、市場・製品を固め、それを売る/生産するための仕組み(オペレーション)を構築して、属人的な「社長依存」状態を脱していく。

さらに企業が大きくなると、今度は経営の仕組みが必要になる。財務管理、人材管理、コンプライアンス管理、そして毎週の経営会議や毎月の取締役会などの仕組みを構築することで、初めて「企業」という飛行機を操縦する「コックピット」が完成することになる。

それでは、モンゴル帝国はどのようなマネジメント・システムを持っていただろうか。

 

モンゴル帝国のマネジメント・システム

モンゴル帝国はあまりに広大な面積を持つため、複数の君主が分割統治することになる。(企業でいえば、事業部制であろう)例えばクビライ・カーンが中国を統治していた1300年前後には、モンゴル帝国は大元ウルス(元)、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)、フレグ・ウルス(イル・ハン国)、そしてカイドゥ・ウルス(チャガタイ・ハン国)の4つを中心とした「事業部制」国家になっていた。

そしてその4つ全てを取りまとめる意思決定機関が、「クリルタイ」である。実際には、すべての国家の代表が一堂に会することは難しい。しかしこのクリルタイが、皇帝を選出し、対外的な遠征計画を立案する最高の意思決定機関であった。

各国家ごとの統治機構はどうなっていただろうか。「モンゴル帝国の興亡」の著者である杉山氏によれば、クビライが確立した元の統治システムは、以下の3つの要素から成る。

●草原の軍事力

モンゴル騎馬軍団を中軸に、さまざまな人種から成る軍隊を「モンゴル」の名のもとに再編成して、軍事をシステム化している

● 国家行政機構と財政基盤の確立

巨大な帝国の行政を動かしてきた実績のある中国のメカニズムを、クビライはそのまま取り込んだ。また、遠くの部下にも影響を及ぼせるように、文書(勅書)がしばしば用いられた。行政官は勅書を通じて自身の職任や特権を確認した。杉山氏はこれを、「文書中心行政」と言っている。

● 物流と経済のシステム

モンゴル帝国全体をカバーする巨大な商業物流のネットワークを構築し、そこから上がる利益に基づいて、国家財政収入を上げた。このプロセスで活躍したのは、イラン系のムスリムを中核とする商業勢力と、そこから選ばれた経済官僚だったという。

 

こうしてモンゴル帝国はクビライの下で、軍事、行政、経済の3つのマネジメント・システムを構築した。世界中から各国民のベスト・プラクティスを取り入れ、多様性に富んだ巨大な組織を構築し、駆動していく。このアプローチは、企業経営者にとっても示唆に富む。出口社長が理想のリーダーを「クビライ」とおっしゃるのも、理解できる。

 

なぜ「システム」は続かなかったのか

では、このような素晴らしいシステムを作り上げたモンゴル帝国は、なぜ100年間しか続かなかったのだろう。

前述した組織開発ピラミッドの考え方に従えば、マネジメント・システムを開発した後に経営者がやるべきことは、「理念」の確立である。官僚的になり、各部門の利害しか考えなくなりがちな企業体において、統合の旗印となるような理念やミッションを掲げ、浸透させなければならない。

この点ではモンゴル帝国は、どうだったのだろうか。

 

理念もドグマもない奇跡の帝国

例えばアメリカ合衆国には、多種多様な人種が集まっている。州の独立自治権も強い。それが「合衆国」として力を合わせている中核には、「自由と民主主義の国」「誰にでも機会が与えられ、将来を夢見ることができる国」という強烈な理念がある。だから、国家として統一的なアイデンティティが保たれている。

前述したローマ帝国であれば、キリスト教と一体化することによって、長期にわたって求心力を維持している。

しかしモンゴル帝国には、このようなイデオロギーがなかった。

「モンゴル帝国の興亡」の著者である杉山正明氏は、こう書いている。

「モンゴル治下の社会は、多種族が共存するハイブリッド状態にあった。特定の価値観の押しつけは当然、紛争と対立の誘い水となる。モンゴル時代の特に後半、局所において不幸な事例はあったものの、概して言えば、『ノンイデオロギーの共生』とでも言って良い状況が、全モンゴル領域を覆った。」

その結果、モンゴル帝国内には、仏教と、キリスト教徒、イスラム教徒など、多種多様な信条を持つ民族が交流しあうことになった。そして、それは長続きしなかった。

私は歴史研究者ではないので、「モンゴル帝国が早期に崩壊したのは、帝国を統合する理念の欠如のためである」と断言できない。しかし、各国のカーンが共有するゴールや価値観のようなものがあれば、帝国がバラバラに分裂したり、カーン間の紛争で体力を消耗したりする事態は、もう少し防げたのではないかと感じる。

ベンチャー企業でも、成長に向けた好循環が、一気に逆回転し「悪循環」に陥ることがある。その時に踏みとどまって戦う「旗印」、すなわち求心力の源泉となる理念があるかどうかが、勝負である。モンゴル帝国には、そのような「旗印」がなかったのではないだろうか。

 

余談

モンゴル帝国は「宴会政治」と言われるほどに、重要な会議の前後に宴会を行うことが多かったという。参加者は地位と身分に応じて、統一の色とデザインによる宴服を利用したという。全世界に散らばった管理者が集まってコミュニケーションを取るには、宴会も重要な統治システムだったのかもしれない。理念とは関係ないが、これはこれで興味深い。

 

グロービス経営大学院 主任研究員 山中礼二

 

モンゴル③1

 

 

 

 

 

 

 

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